活動いただいたみなさんから体験談をいただきましたので、紹介します。


赤十字奉仕団新潟県災害救援機構

委員長  佐藤 文雄

地震・・・これは訓練ではなかった
 突然の大揺れ。配信契約をしている地震メールで、小千谷市が震度6強と入電。ただちに団員を招集すると共に、上越市対策本部に向かい上越市の被災状況を確認、市民プラザ無線室に赤十字奉仕団災害救援機構としての災害対策本部を設けました。赤十字新潟県支部と電話連絡、市民プラザに設置してもらっている災害時有線電話の威力は大きく、ほとんど通話に不自由はありませんでした。

応急手当のできる会員を派遣して
 県支部からは、応急手当のできる団員を確保し、直ちに被災地へといった指示でした。午後7時には小千谷市の被害が大きいことをつかみましたが、上越市でも避難所が開設されたことから、被害状況把握のため2隊に分け、1隊(5名)を小千谷市役所へ派遣することになり、他の1隊を上越市での対応に当たらせました。派遣命令された会員に緊張と不安が襲います。

市役所に赤十字の旗が
 小千谷市に向かった1隊は、市民プラザ内の災害対策本部の通信支援を受け、なんと午後10時55分には小千谷市役所に到着したのです。
 小千谷市役所に到着後、市の災害対策本部の指揮下に入るとともに、直ちに赤十字現地災害対策本部立ち上げのため、市の南雲民生部長と交渉し、市役所1階の研修室を借り受けることができました。

だれもいない不安
 最初の活動は小千谷市の被害状況の調査でした。どこに避難所ができて何人避難しているのかさえ誰にもわかりませんでした。
 上越市からの応援隊5名も午前1時には小千谷市に入りましたが途中で赤十字奉仕団のマークを見つけた被災住民から救助をもとめられ、無線からは「医療班はどこにいるのか」としきりに確認要求が入電します。「医療班はいない」、「いないのか、来ていないのか」「医療班は来る予定なし」。こんなやりとりが無線機から流れてきます。余震のなか団員も不安と緊張の連続でした。

医療班が来る!
 23日の夜半から24日未明にかけて、武蔵野赤十字病院と富山赤十字病院の医療班が小千谷市に向かっているという情報を入手しました。待っていた情報です。さっそく災害対策本部へ報告したことはいうまでもありません。
 無線通信を駆使し所在を確認、当奉仕団の車輌を途中まで誘導に向かわせ、24日午前5時10分には小千谷市総合体育館に医療班を導入できました。

ヘリを探せ
 医療班が到着しましたと災害本部に伝えたところ、自衛隊のヘリコプターに医師を同乗させ救出に向かうことが可能かという要請があり、指定の時間は午前5時40分。時間がありません。とにかく到着したばかりの武蔵野赤十字病院の医師を河川敷のヘリポートへ誘導する活動に入りました。

こんな重症、ここでは無理
 自衛隊ヘリで運ばれた患者を小千谷総合病院へ運び入れたものの、患者が重症であったために小千谷総合病院では対応困難と判断され、後続して到着した富山赤十字病院の医療班と共に長岡市の立川病院に患者輸送を行い、道案内を担当しました。

みなさんってボランティア?
 夜が明けると小千谷市内の避難所を掌握するための活動が始まりました。
壁には小千谷市の行政地図が貼られ、市の女性職員から透明のゴミ袋をいただきそれで地図をおおいます。こうすることで時間の経過など書き込み自由。この手法は奉仕団の研修で学んだことです。
 行政地図も各市町村には必ずあるということを会員は知っていました。マジックやメモ用紙などは「事務用品セット」としてひとつのケースにまとめたものを現地に運び込んでありました。これは県支部のアイディアをまねたものです。
 東京消防庁の方が立ち寄って行かれました。このとき「みなさん、手慣れていらっしゃるけどほんとにボランティアさんですか?」のひとことでした。やはり日頃の訓練の成果がきちんと実践できたことの証でもありました。

小千谷から川口へ
 10月27日、赤十字の救護活動が軌道に乗ってきたものの、通信事情が悪かったために無線通信網を構築し、小千谷市~長岡赤十字病院~赤十字新潟県支部とのルートが完成しました。一方川口町の情報が入手できないために川口町への救援を開始し、避難所の把握やボランティアセンター立ち上げのための事前準備を行うなど、活動の舞台を川口町に移行しました。

来るなら赤十字マークを付けて
 道路の開通を待っていたかのように大勢のボランティアが川口町へ入り込みましたが、地域からはボランティアに対する要望があがってきません。
 住民のみなさんは言葉の違いや自分たちの地域は自分たちでという地域柄もあって、ボランティアを受け入れるまでには時間がかかりました。関係者は「赤十字マークをつけてきて、赤十字なら安心して受け入れてくれるから」と呼びかけている姿を忘れることができません。

こころのケアへ
 10月30日以降からは上越市に集まった救援物資の輸送や、避難所に対する心のケアを実施しました。
 団員の中から保健師、看護師、精神保健福祉士、介護支援専門員、社会福祉士、栄養士、理学療法士、養護教諭などを被災地に派遣し、エコノミークラス症候群への対応やストレスケア、健康管理などを繰り返し行ったのです。これだけの専門家が団員にいるのですが、当初は心のケアを理解してもらえず、ニーズ探しに苦労しました。

ボランティアへの支援
 数多くのボランティアが駆けつけたために、川口町ではボランティアに対する支援も活動の中に組み入れ、ボランティアへの炊きだし、ボランティアのための応急救護所の設置など12月末までこうした活動が繰り返されました。

長岡市へも
 長岡市の仮設住宅へは、ホットカーペット450世帯分を宅配するなどの救援を行いました。

延べ100名に
 この震災で、50日間で延べ100名の団員を派遣しました。当奉仕団の活動は、災害発生直後の応急救護、情報収集といった初動に重点を置いていますが、こうした活動が実践できた背景には、日頃から積み重ねられた赤十字との連携や、これまでの活動の実績の積み重ねの成果だと再確認をしました。

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新潟青年赤十字奉仕団

副団長 佐藤 元昭

 23日の夜6頃に中越地方を中心とした大地震が発生しました。私は新潟市内の大型電気店の3階にいたのですが、とても揺れその場に立ち尽くしていま した。その後、すぐ勤務している会社に行き工場内の機器装置を確認しましたがほとんどの装置が非常停止で停止してしまった状態だった為、復旧作業に追われ てしまった。

 その頃、県支部より青奉に協力の緊急要請があり支部に数名の方が集合し、倉庫にある救援物資等の搬出・トラック積込作業及び支部職員と一緒に一部の被災地 に行きトラックの荷物の積み下ろし作業をしたそうです。本間さん&菅原さんは三条・見附へ、奥井は加茂へ行き、その他の人たちは残って支部倉庫での作業を し、解散したのは夜中2時頃だそうです。ご苦労様でした。

 翌日の24日に再度召集(地域奉仕団や安全奉仕団等含む)があり約50人(トラック1台・バス1台・自家用車4台)で被災地の小千谷に向かいました。青奉 からは斎藤さん、福田さんと佐藤が行きました。新潟市から高速道路で向かったのですが途中の三条燕ICで一般車両は通行止め、しかし緊急車両という事で通 行させていただき小千谷ICまで走ったのですが、その間は道路が隆起したり地割れしたり、一部陥没したりとても危険でその都度止まり、ゆっくりと乗り越え て走っていく状況でした。

 小千谷市役所に到着後、日赤災害本部に行き佐川参事の指示を仰ぎ、救護班と炊き出し班に分かれ作業を実施しました。(小千谷市周辺は電気ガス水道が不能、有線電話・携帯電話もほとんどつながらない状況の為、近隣市町村の状況把握ができない状態でした。)

 救護班は斉藤さんを含め5名で近くの避難所に行き救護等の作業を行いました。残りの人達全員が炊き出し班で市役所倉庫脇にて3台の移動炊飯器を設置し、ハ イゼックスにてご飯作りを実施しました。また、隣でも自衛隊の方々が大量に炊き出しをしていて、そのご飯でおにぎりを作る手伝いをしました。作業途中3回 ほど震度5位の余震があり、その都度全員倉庫から外に逃げ出しました。震源地なので「どすん」と下から突き上げるような感じですごく揺れました。かなり怖 かったです。

 作業途中に避難所におにぎりを届けに行ったのですが、市内を車で通行した際、家が倒壊してたり、電柱が斜めになってたり倒れてたり、道路が隆起・地割れ・ 陥没ととても悲惨な状況でした。避難所では朝から何も食べてない方がたくさんいて、持っていった数ではぜんぜん足りないと担当の方が話をされていました が、持ってきてくれたことに感謝していただきホッとしました。被災直後ということで何処の避難所も食料が不足している状況でした。

 夕方4時半過ぎになるとあたりが暗くなり始め、電気が使えない状況の中、作業は危険と判断し作業を中止すぐに片付け始め、5時半頃に小千谷を出発し県支部へ戻りました。

 最後に、被災地が一日も早く復興できるよう祈りたいと思います。

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